「鍼灸師になるということは、氣をわかって、あつかうことができるようになることだ。」と鍼灸大学入学時の私はそのようにイメージしていました。
けれども、大学の授業でそのような「氣の知識や実践体系」を教えてくれることはありませんでした。大学の授業は、西洋医学的な知識を身につけるためのカリキュラムでした。
そこで、「氣」を知るために太極拳同好会に参加したのです。
そこには不思議な光景が広がっていました。
部員たちは、それぞれが「氣」について自由に探究しており、おだやかな雰囲気にあふれていました。
この同好会で最初に教えられたのは、「立禅」というものでした。
背筋を伸ばしてあごを引き、下半身は膝を軽く曲げて、ただ立っている。
という修養法でした。
これを毎朝40分ぐらい行ったのです。
私は「氣」のことを分かりたい一心でひたすら修養しました。
しかし、1か月たっても何もわかりませんでした。(笑)
しまいには、なんでこんなことをしているのかわからなくなってきました。
ただ単に、毎朝下半身の筋力トレーニングをしているだけにしか思えない日々が続きました。
何も成果を感じないまま半年が過ぎました。
季節が秋から冬に移り変わり、丹波の山奥の朝の冷え込みは、私にはこたえました。
効果は相変わらず感じられないままでした。
しかし、できるだけ参加していました。
そのころになると、なんとなくラクをするコツもわかってきて、修養時間をやりすごすことができるようにはなりました。
しかし、効果は?でした。
あえて言えば、苦痛な時間をしのぐことができるガマン強さだけは養われたようでした。
しかし、そこに追い打ちをかけるような出来事が起こりました。
先輩部員たちが寒くなると練習に遅れたり、来なくなったのです。
ついには練習のはじめから終わりまでひとりになりました。
そして、私は結論しました。
「もう辞めよう・・・。」
そして、太極拳同好会の代表に辞めることを伝えると、代表は言いました。
「太極拳の真髄はそのようなものではありません。短気を起こしてはなりません。」
しかし、私の朝のトレーニングは、その日で終わりを告げました。
年が明けて、定期テストの勉強をしていた私は、たくさんの暗記を強いられ、まったく疲れてしまっていました。気分転換に1ヶ月以上やっていなかった立禅をやろうと思い立ちました。
ポーズを決めたとたんに、頭のしんにファッとした波のような流れが、背骨の下のほうから登ってくるのがわかりました。その心地よさは、今でも鮮明に思い出すことができます。暗記で疲労していた頭は瞬時に活性化し、力がみなぎるような感覚に満たされました。
あー、これなんだ。
私がはじめて「氣」を理解した瞬間でした。