呼吸法をしていくとどうなるのか?と考えたことはありませんか?
呼吸法をする理由はみなさんそれぞれだと思いますけれども、「進化」するために呼吸法を実践しているという方がおられます。
それは、すごいチャレンジです。
そして、そういった方から質問をいただきました。
「魂というものはけがれのない、自分そのものであると理解しています。そして、身体のことは無視して、魂を磨くことに専念しなさい。と教わりました。呼吸法を実践していく中で、呼吸法を実践することが魂を磨くことになるのでしょうか」
という内容です。
私も呼吸法を実践して20年以上になりますが、実践していく中でいろいろな考え方を見聞きしてきました。
現在のところの私の考え方はこうです。
身体というものをどのようにとらえているか、ということは次のような例で説明することができないでしょうか?
わたしの「お金」
わたしの「家族」
わたしの「ペット」
わたしの「身体」
このように、私たちは自分の身体のことを、まるで自分の所有しているものであるかのような言葉づかいをします。
けっして、「わたしは身体」とは表現しないのです。
つまり、わたしは身体ではない、ということを明確にしていると言えませんか?
身体はあくまでも「わたし」の所有物なのです。
「わたし」という存在が「魂」であるとするなら、身体は魂であるところの「わたし」が所有するものなのです。
例えば私たちは、家に住んでいます。
その家はあなたが所有しているものです。
住んでいる家を快適な状態にしてもいいし、しなくてもいいでしょう。
それは、あなたの自由です。
しかし、もし快適でない家の状態であればどうなるでしょうか?
真冬にすきま風が入ってくる寒々とした家で寝る。
暑い夏に蚊が入ってきて、おまけにクーラーもきかない部屋で寝る。
すると、不快な感覚によって安眠・熟睡ができないかもしれない・・。
ことは容易に想像できますよね。
これは、何が正しいのかを言いたいのではありません。
あなたの所有している家をどう扱うか、どんな環境にしたいかを決めるのはあなたであり、家を快適にするもしないも、あなたの自由なのです。
このたとえを家ではなく、「からだ」に置きかえたとしたらどうでしょうか?
あなたが所有している「からだ」はあなたがどのようにあつかうかを決めることができます。
快適にあつかうのもいいでしょうし、粗末にあつかうのもあなたの自由です。
自分にとって快適な状態であろうと身体をメンテナンスすることもできますし、身体をかえりみず使い、ケアもしないこともできます。
そして、どんなに大切にあつかったとしても100年足らずの使用期間でしかないのです。
そういったことを踏まえたうえで、当初の質問に向かいましょう。
私にとって呼吸法とは、身体と魂を「つなぐ」ものです。
魂と身体はそもそも分離しやすい性質を持っていて、それを結び付けようとした先人たちの試行錯誤の結果残ってきたものが呼吸法だと思うわけです。
よく私は食事の時にうわの空になっていて、何を食べたか思い出せない、というぐらい食べることに集中できていないこともあります。つまり、命を維持するための食事の時でさえ、うわの空になっていて、魂と身体が分離しているという実感とともに生きています。
魂を磨くことに集中して、身体は無視するように生きていくことも、もちろん可能です。
しかし、呼吸法を実践していくことは、身体を意識することにつながっています。
油断するとすぐにうわの空になってしまう私にとっては、呼吸を意識することで身体を意識し、この人生をあゆむためのよりどころを得ている、と感じています。
呼吸を意識すると、身体を無視することがそもそも出来なくなってしまうと思います。
以上の点を踏まえて、楽しく生きていくために呼吸法を実践していくことができるといいですね。
「どこに行ってもよくならない」